TOUR(東北大学機関リポジトリ)※著者の許諾が得られている論文をPDFファイルで閲覧できます。
木村俊彦 | 松島山延福寺における天台宗から臨済宗への転換―入間田宣夫氏の松島二論文を読んで― |
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華園聰麿 | ファン・デル・レーウの宗教現象学と人間学―ヘーゲルの影響に着目した考察― |
笠松 直 | rājapuruṣa と rājapurisa―羅什訳「官長」をめぐって― |
藤本有美 | Vyavahārabhāṣya における非僧非俗者(siddhaputta)について |
徳増 平 森田敬史 谷山洋三 | 金児の宗教観尺度を用いた日本人大学生の宗教観の考察―1991 年との比較― |
木村俊彦 | 有我論と無我論の弁証・続篇 |
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斎藤 喬 | 伊予の八百八狸信仰における宗教文化的背景 |
陳 頴傑 | 「一心」から読み解く無住道暁の思想構造―中世の宗教思想史における位置づけの試み― |
笠松 直 | 梵文『法華経』諸伝本における動詞 jñā の現在語幹活用形の変遷素描 |
宮崎裕子 | 女性の幽霊の比較研究:クンティラナックそしてその姉妹たちが担うもの |
徳増 平 谷山洋三 | 経文聴取効果を実証する意義 |
堀川みき | 刑務所出所者等の居場所―宗教系 NPO 法人が運営する自立準備ホームの活動事例― |
木村俊彦 | 法心禅師の新資料―付録・菩提達摩論― |
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早川祥賢 | 永遠の物語と一瞬のさとり― 道元と臨済 |
華園聰麿 | 石津存在論再考―「第三の領域」概念とその展開― |
長友泰潤 | 俱舎論の意と風―ブラフマスートラとの比較研究― |
笠松 直 | 梵文『法華経』諸伝本における動詞ramの現在語幹活用形の変遷 |
アンディ・ホリック・ラムダニ 谷山洋三 | 豪州ニューサウスウェールズ州内大学におけるムスリム礼拝施設とチャプレン |
渡辺 亮 | Kṛṣṇācāryaの聖典解釈—*Guhyatattvaprakāśaにおける*Yoga-/*Yoginī-tantraの会通— |
佐々木謙一 | キリスト教における「悪魔・悪霊への対応」についての宗教学的考察 |
徳増 平 | 認知神経科学からみた宗教 |
木村俊彦 | 東北帝国大学出立の頃—日本とドイツの交流を中心に—(補遺) |
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陳 頴傑 | 『沙石集』の救済構造─神明の方便と「慈悲」「智恵」─ |
村上真完 | 初唐における智通訳の観音経類が意味するもの |
華園聰麿 | ロバート・N・ベラーの「比較宗教」── “Religion in Human Evolution“ に関する一考察── |
笠松 直 | 夜の王─ nagaraguttika-「都市の守護者」考─ |
包 龍 | ホルチン地方におけるモンゴル・シャマニズムの憑依型への変遷について |
眞鍋智裕 | マドゥスーダナ・サラスヴァティーの Bhāgavata Purāṇa 1.1.3の解釈 ──何故 Bhāgavata Purāṇa が最高の〈人間の目的〉なのか── |
佐藤亜美 | タカラガイと安産信仰─『竹取物語』を手がかりに─ |
佐﨑 愛 | 日本ハリストス正教会の〈死者の記憶〉 |
木村俊彦 | 東北帝国大学出立の頃—日本とドイツの交流を中心に— |
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村上真完 | 南アフリカの新仏教運動Sat Chit Anand(sac-cid-ananda) |
山田仁史 | 岡正雄による日本神話・宗教論 |
村上幸三 | ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド1.2.1へのシャンカラ注における「因中有果論」 |
大村哲夫 | スピリチュアル・ケアとしての在宅緩和ケア:臨床宗教師の可能性 |
西村直子 | ヴェーダ祭式における家系の意義 |
笠松直 | 梵文『法華経』における「法師品」にみられる二、三の言語的特徴 |
眞鍋智裕 | マドゥスーダナのバーガヴァタ・プラーナ註における四姓・四住期制度超克の論理 |
渡辺亮 | Vasantatilakaにおける身体観 |
佐々木雄太 | Narandasmrtiにおける司法総則 |
早川 敦 | 証上の修 |
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木村俊彦 | 初期瑞巌寺史の研究・承前 |
村上真完 | 仏と神の違いの考察―西域・高麗・朝鮮・日本の寺院壁画の男神・女神と一神教の神― |
華園聴麿 | 親驚の往生考―即得往生の両義性― |
庄司一平 | 19世紀米国ユニテリアン主義における教典の脱文脈化 |
藤本有美 | 出家期間の少ない僧の僧団指導者就任という例外について |
高橋嘉代 | 支出科目からみる祭礼運営の展開―山の寺秋葉神社どんと祭の事例から― |
ドンネレ・アリーセ | 墓地整理に伴う地蔵の移動―仙台市仏教寺院の調査から― |
陳 宣聿 | 台湾における嬰霊の遡源:龍湖宮を手がかりに |
栗田英彦 | 腹式呼吸の近代―藤田式息心調和法を事例として |
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村上真完 | 新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 |
阪本(後藤)純子 | 新月祭(および祖霊祭)の原初形態―Rgveda X85 とAtharvaveda VIII 10 を中心に― |
久保田力・渡部 諭・杉山朗子 | 家庭と学校における自分の色イメージ等に関する覚書―イメージ調査結果第1次データ集計を振り返って― |
吉水清孝 | Brahmasutra成立史の再検討―第3巻第3章について― |
早川 敦 | 儀礼空間の構築 |
高本康子 | 文明を目指した「菩薩」―大谷光瑞に関する一試論― |
高棹健太 | 19世紀末のシンガポールにおける葬送と火葬に関する議論 |
西村直子 | ヴェーダ文献に辿る「祭主の人生」 |
ドンネレ・アリーセ | 寺院の境内における地蔵尊の役割―仙台市の四ヶ所の寺院の仏像の建立・移動をめぐって― |
藤本有美 | Vyavaharabhasya第一章に見られる住処での生活規定について |
劉 建華 | 近代における人の神格化―仙台藩祖の伊達政宗を事例に― |
松村幸彦 | インド後期密教における現世利益 |
坂 英世 | パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapañca- |
木村俊彦 | 初期瑞巌寺史の研究 |
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諸岡了介 | R.N.ベラーにおける宗教進化論の展開と現代の宗教研究 |
村上真完 | 石津照璽先生の捉える存在の極相 |
久保田力・渡部 諭・杉山朗子 | 兄弟姉妹の色イメージについて(調査結果から) |
谷山洋三・森田敬史 | 電話相談における宗教協力の意義 |
高橋嘉代 | ニュータウンにおける祭礼運営組織の新たな試みとその背景―山の寺秋葉神社どんと祭の事例から― |
高本康子 | 寺本腕雅喇嘛教工作案に見る戦時下日本と「喇嘛教」 |
華園聴麿 | 『歎異抄』第三条考―善人・悪人概念をめぐって― |
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久保田力・渡部 論・杉山朗子 | 男女における父母のイメージ色選択組み合わせの特徴について―東北芸術工科大学における調査から― |
高本康子 | 寺本腕雅関連資料の現在―寺本家資料を中心に― |
陳 甜 | 吉田寺におけるポックリ信仰の展開 |
藤本有美 | Vyavaharabhasya 第2章における心の不調な僧について |
尾園絢一 | 正しい言葉 (śabda-)―ヴェーダとパーニニ文法学の観点から― |
間宮啓壬 | 日蓮における「龍女成仏」理解の系譜―「即身成仏」の文脈で― |
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吉水清孝 | ミーマーンサーにおけるYajurveda中心主義について |
阿部友紀 | 五来重の「庶民信仰」論 |
西村直子 | タイッティリーヤ・ブラーフマナにおける新月祭・満月祭のマントラ―Upavasathaに関するⅢ 7,4を中心として |
高本康子 | 戦時期大陸関連画像資料に見る「大東亜」の宗教―「富士倉庫資料」を中心に― |
笠松 直 | ミャンマー僧院所伝のパーリ語古写本の現地調査―初期調査概要の報告と今後の展望― |
藤本有美 | Vyavaharabhasya第2章におけるvihara(遊行)の規定について |
黄 緑萍 | 流行神の誕生と展開―長野県飯田市貧乏神神社を事例に― |
松村幸彦 | Ratnakarasantiの説くHevajra系観相法について―三三昧と三身の関係を中心に― |
山形孝夫 | 宗教の力―〈絆〉再考――死者を記憶するということ | |
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木村俊彦 |
ウダヤナに於けるダルマキールティ引用の経緯 | |
村上真完 | 日本仏教における絆の問題:原始仏教との対比 | |
高橋嘉代 | 地域社会の変化に伴う祭礼運営組織の再編――仙台市泉区における「山の寺秋葉神社どんと祭」運営組織に注目して |
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村上幸三 | シャンカラにおけるsaksin(目撃者)について | |
大村哲夫 | 生者と死者をつなぐ〈絆〉――死者ヴィジョンの意味するもの―― | |
西村直子 | ヴェーダ文献における誕生の神話と儀礼――後産分娩を中心として―― |
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高本康子 | 大陸における対「喇嘛教」活動――寺本婉雅を中心に―― | |
井藤美由紀 | 亡き人との〈絆〉と宗教の力 | |
モリス・ジョン | 「腐敗せざる遺体」(corpora incorrupta)の思想的系譜 |
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川口葉子 | 「教会」と「社会」の対立――日本万国博キリスト教館出展問題を中心に―― |
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岡野 潔 | インド正量部による世界の歴史―『大いなる帰滅の物語』内容梗概― |
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小林 守 | 『中観荘厳論』第63偈について |
庄司一平 | サンタヤーナの自然的宗教論 |
長友泰潤 | チャラカ・サンヒターのプラーナ説―他学派の見解との比較考察― |
相澤里沙 | 宗教におけるトリックスターの役割―G・J・ヘルトにみる― |
久保田 力 | 生・死・死後の色のイメージ―美大生への質問紙調査から― |
澤井治郎 | ラインホールド・ニーバーとパウル・ティリッヒにおける宗教理解の枠組み |
黄 緑萍 | 仙台幸子に関する比較研究―流行神の視点で― |
高本康子 | 戦時下の「喇嘛教」認識―芥川光蔵「秘境熱河」を中心に― |
笠松 直 | ナツメヤシとタマリンド |
栗田英彦 | 岡田式静坐法と国家主義―二荒芳徳を通じて― |
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久保田 力・渡部 諭 | 芸術系大学性のスピリチュアリティに関する意識について―質問紙調査から― |
吉水清孝 | シャンカラにおける瞑想の客体としての最高我(paramatman)について |
高橋嘉代 | 二極化する都市祭礼―宮城県仙台市の「どんと祭」の実施件数および参拝者数に注目して― |
足澤一成 | 修辞技巧(alankara)「描写」(svabhava-ukti) |
大村哲夫 | 死者のヴィジョンをどう捉えるか―終末期における死の受容とスピリチュアル・ケアー |
笠松 直 | Vedic svarga- |
飯塚真弓 | 空間構造、神話、宗教実践から見るヒンドゥーの神々の関係性―南インド・チダンバラムの事例をめぐって― |
西村直子 | ヴェーダ文献における発酵乳とSomaの神話―samnayyaを中心として |
高本康子 | 戦時期日本の「喇嘛教」施策―国立民族学博物館青木文教師アーカイブを中心に― |
茂木謙之介 | 雑誌メディアに於ける皇族表象―十五年戦争期『家の光』を事例に― |
山田知輝 | RgvedaにおけるSarasvati―RV VⅡ95,96を中心に― |
木村俊彦 | ダルマキールティにおけるヨーガ者の智の定義について |
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澤井 真 | 宗教的経験と「無意識的なるもの」―ウィリアム・ジェイムズの心理学から― |
澤井治郎 | ティリッヒの宗教的象徴論にみる「究極的関心」 |
村上真完 | 知覚(体験)に基づく仏教か理屈(理性)に基づく仏教か―和辻哲郎を手掛かりに― |
江川純一 | 宗教学者の宗教運動―ペッタツォーニの戦後と宗教的自由― |
高本康子 | 明治大正期日本におけるチベット画像資料―日本人入蔵僧の旅行記を中心に― |
佐藤慎太郎 | M.エリアーデにおけるブランクーシ解釈―「聖なるものの偽装」と現代芸術― |
西村直子 | ヴェーダ文献における胎児の発生と輪廻説 |
山畑倫志 | Desi概念の成立―Desinamamalaに至る背景― |
諸岡了介 | 時代の中の弓と宗教―阿波研造と大射道教― |
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笠松 直 | マヌと五人の息子たち |
吉水清孝 | 祭式のなかの神々―ミーマーンサー学派の立場から― |
高橋嘉代 | 「山の寺秋葉神社どんと祭」運営組織における役員構成の変化 |
阪本(後藤)純子 | 「水たち」apasと「信」sraddha- ―古代インド宗教における世界観― |
蜜波羅鳳洲 | 大乗経典における浄化の理論と手法(2)―『維摩経』所説のmahabhijnaparikarmaを中心として― |
華園聰麿 | ヴァン・デル・レーウの宗教現象学の人間学的理解―「生」および「世界」の概念を中心にして― |
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澤井義次 | 宗教の多様性と現代―宗教研究の新たな地平― |
何 燕生 | 禅思想のもう一つの流れ―道元における「拈華微笑」の理解をめぐって― |
小椋章浩 | 僧肇の言語観―真理の不可言性― |
谿 季江 | 大津絵と民俗宗教との関わりについて―「藤娘」を例として― |
阿部友紀 | 現代祈祷寺院における仏教行事の成立 |
大村哲夫 | 継承される宗教経験「悟り」―『伝光録』にみる「悟」から― |
小田島建己 | 〈死者の結婚〉のイメージと“写真”―「ムカサリ絵馬」の事例にみる |
澤井 真 | ジェイムズの「プラグマティズム」概念とその理論的展開―「神」の探求と宗教的経験― |
澤井治郎 | ティリッヒの「宗教史の神学」とその位置 |
栗田英彦 | シャマニズム論における諸問題―アマヨンとフルトクランツの論争を通して― |
相澤里沙 | オランダにおける宗教学と民族学―「アニミズム」に現れる差異― |
オリオン・クラウタウ | 恐怖の源から救い主へ―宗教学における〈歴史〉の位置付け― |
斎藤 喬 | 啓蒙のスペクトル―ジャック・プルーストと説教の言説について― |
田中鉄也 | サティ―研究の現在:1970年代以降の学術的動向を中心に |
高橋嘉代 | 宗教浮動人口における既成仏教寺院の機能―「山の寺秋葉神社どんと祭」に注目して― |
滝澤克彦 | 越境できなかった宗教―社会主義以前のモンゴルにおけるキリスト教伝道― |
西村直子 | 月と神々の食物―Satapatha-Brahmana Ⅰ 6,4 (新月祭のupavasatha) |
山田仁史 | 金の枝を手折りて―フレイザーが残したもの― |
阪本(後藤)純子 | 「究極のAgnihotra」を巡るJanaka王とYajnavalkyaとの対話―SB-M XI 3,1, SB-K Ⅲ1,4, JB Ⅰ19f., VadhAnv Ⅱ13― |
吉水清孝 | 定動詞のkaraka表示論証とクマーリラによるその批判について |
木村敏明 | 東南アジアにおけるキリスト教的口頭表現と聖典―トバ・バタック社会の事例― |
岡野 潔 | 弥勒下生経類と『大いなる帰滅の物語』の関係 |
鈴木岩弓 | 『中央公論』にみる「死」の扱いの変化 |
後藤敏文 | sraddha-, credoの語義と語形について |
村上真完 | 原始仏教資料の新古問題と法の意味―『スッタ・ニパータ』の古層と『律』の仏伝をめぐって― |
徳田幸雄 | 宗教集団の展開と構造―回心類型と宗教年鑑データにもとづく一考察― |
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佐藤慎太郎 | 日本におけるエリアーデ宗教学の意義と貢献 |
斎藤 喬 | 誰が何を怖がるのか―ジャン・ドリュモーと「恐怖」の語りについて― |
井田克征 | クールマチャクラについて |
足澤一成 | インド文学としての俳句―インド文学理論で俳句評論は可能か?― |
岡野 潔 | Anavataptagathaの釈尊の業の残滓を説く因縁話の形成 |
相澤里沙 | 人類学者と植民地行政官―W・W・スキート『マレーの呪術』にみるアニミズム― |
蜜波羅鳳洲 | 大乗経典における浄化の理論と手法―『三昧王経』所説のmahabhijnaparikarmaを中心として― |
長島潤道 | 維摩経』梵本と諸訳の比較 |
米澤嘉康 | 『維摩経』と『智光明荘厳経』 |
華園聰麿 | エリアーデ宗教学の人間学的理解―ヒエロファニーのカテゴリー的解釈の試み― |
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高橋嘉代 | 新規入檀檀家における寺檀関係―その関係性に注目して― |
物部朋子 | 「宗教の他に道はあるのだろうか?」―もう一つの宗教的志向の探求― |
山田知輝 | vastavya-, vastuha-, vastupa- ―置き去りにされた居住地に関する記述を巡って― |
山本侍弘(弘史) | Ambararaja(文殊師利)の発菩提心偈―中観儀礼の一側面― |
ハムゾン・シトゥモラン | バタックの葬儀 |
足澤一成 | サンスクリット戯曲は娯楽か―インド文学理論の示す道― |
間宮啓壬 | 日蓮研究に関する方法論的試論と戦後日蓮研究史―「顕密体制論」後の歴史学的・思想史学的日蓮研究を中心に― |
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浅井證善 | 四国遍路と弘法大師信仰―仏海上人の場合― |
江川純一 | 初期ペッタツォーニの宗教史学―『サルデーニャの原始宗教』とそのコンテクスト― |
Ippei SHOJI | An Ambiguous Common Faith of John Dewey |
松森大樹 | 五相現等覚に見られる唯識思想に基づく行法について―Ratnakarasanti著Rahahpradipaの記述を中心に― |
Dale K. Andrews | Transcendental Political Action:A Case of Oshirasama Tatari from the Tohoku Region |
森 雅秀 | 仏教の空間論への視座 |
諸岡了介 | 現代宗教研究における現象学的社会学の意義 |
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斎藤 喬 | 「怖がらせるもの」としての幽霊―三遊亭圓朝『真景累ヶ淵』をめぐって― |
井田克征 | プラーナーヤーマとクンダリニーヨーガ―シュリークラ派における儀礼解釈の二つの位相 |
熊谷孝司 | BrhatsamhitaおよびAtharvavedaparisistaに現れるGargaについての一考察 |
村上幸三 | Vakyapadiyavrttiに引用される詩節のヴェーダーンタ説 |
鈴木岩弓 | 堀宗教民俗学と「民間信仰」 |
古坂紘一 | 蔵梵漢仏典の比較対象研究に関する私見―特に『菩薩地』功徳品をめぐって― |
木村敏明 | 「初期」石津宗教哲学における「成立性」概念―「晩期」の実証的研究との関連において― |
奥山直司 | 日本近代仏教学史の一側面―明治の印度留学生を中心にして― |
徳田幸雄 | 回心の比較宗教学―conversionと廻心― |
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村上幸三 | Vakyapadiyavrttiにおけるkala(時間)概念の実質 |
Toma Radev | A Morphosemantic Study of the Present Forms Built to the Roots gam and ga in the Rgveda |
滝澤克彦 | 現代モンゴルにおけるキリスト教の受容をめぐって |
藤本有美 | パーリ語junha-の語義について |
スダン・シャキャ | 『一切悪趣清浄タントラ(Sarvadurgatiparisodhana Tantra)』におけるマンダラ儀軌の一考察 |
大城公男 | 鳩間島のプール―沖縄における予祝儀礼 |
熊谷孝司 | 古代インドにおける予兆の研究―地震の場合― |
村上真完 | 無常説と刹那滅説の基礎概念 |
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楠 正弘 | シャマニズム論の背景と展開 |
木村俊彦 | インドにおける神の証明 |
汪 立珍 | 中国エヴェンキ族の山の神祭りとオボ祭り |
中村隆海 | 祖霊祭sraddha:インド・ガヤー市の事例報告 |
岡光信子 | 南インド・カトリック教会の宗教活動と社会奉仕―一女子修道会のインド管区の事例をもとに― |
尾川明子 | 大乗仏典における女性Hphags-pa bud-med hgyur-ba lun-bstan-pa shes-bya-ba theg-pa chen-pohi mdo(聖転女授記経)の場合 |
渡辺喜勝 | 草木成仏論の形成と意義 |
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諸岡了介 | R.N.ベラーにおける市民宗教概念について |
村上真完 | 故神舘義朗氏の業績と学風を偲ぶ |
松本峰哲 | シャンバラ(Sambhala)考 |
徳田幸雄 | 回心研究とその人間理解 |
笠松 直 | Veda文献群におけるUddalaka Aruni―祭式学者としてのAruniとその周辺― |
堂山英次郎 | Rgveda I 82 hariyojana-, brahman-, 新しい歌, I. Sg. Konjunktiv |
華園聰麿 | メンシングの宗教学における人間学的理解 |
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朝山幸彦 | 極楽浄土観―Sukhavativyuhaと大阿彌陀経― |
何 燕生 | 如浄研究ノート―特にその生涯と語録をめぐって― |
倉西憲一 | Acintyadvayakramaopadesaの研究(1)―序説として― |
庄司一平 | エマソンにおける自然と魂―その人間理解をめぐる一考察― |
Takatsugu Hayashi | Preliminary Notes on Merit Transfer in Theravada Buddhism |
待井芙美子 | キリスト教葬儀の変遷―儀式書・祈祷書・式文を手がかりに― |
岡野 潔 | 仏陀が永劫回帰する場所への信仰―古代インドの仏蹟巡礼の思想― |
岡 宏志 | エリアーデ宗教学における人間学的側面について |
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村上真完 | 大乗経典の創作(sutrantabhinirhara,能演諸経,善説諸経) |
徳田幸雄 | 新島襄の回心―その過程と本質をめぐる解釈学的考察― |
長友泰潤 | チャラカ・サンヒターのマナス説―インド哲学諸学派との比較研究― |
岡光信子 | 地位上昇運動とキリスト教―近代南インドのナーダール・カーストの事例をもとに― |
三井淳司 | 『金剛頂経』におけるhrdayaとメタファー |
林 能輝 | 覆う非知と散開する非知―不二一元論学派における非知説の一展開― |
ハムゾン シトゥモラン | バタック社会におけるキリスト教の機能 |
陶 思炎 | 中国の紙馬について |
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何 燕生 | 無住における禅教一致説の受容について |
河村能成 | 空海の著作に見る道祖神の観念―『秘蔵法鑰』と『聾瞽指帰』の記述を中心に― |
Takatsugu Hayashi | Death and Rebirth in Theravada Buddhism―Some Problems of Mental Object― |
木村敏明 | ハガベオン―トバ・バタックの習慣における生の価値と死者― |
権 来順 | 瑜伽行唯識派の実践論―『Yogacarabhumi』修所成地を中心にして― |
許 一系 | 『Ratnarasi sutra(大宝積教・宝梁聚会)』に見える仏教教団の構成 |
松本峰哲 | Vimalaprabhaタントラの所説の略説の章における引用文献について |
品川知彦 | 佐太神在祭考―神々は何故出雲に集うのか― |
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繁田信一 | 仏神・天道・宿世―平安貴族の生活感覚に置ける神仏の位置― |
間宮啓壬 | 日蓮の女人救済論―ジェンダー論的視点から― |
堀内みどり | サーラダー・デーヴィーの生涯とその神秘体験 |
北原裕全 | adhyvasaya―有形象理論における唯識と外界― |
西村直子 | 律典の食物観―食蒜禁止規定を中心として― |
谷山洋三 | 古代インドにおけるハンディキャップをもつ人々―律文献を通して― |
M.Mostafa Kamal | The Dehatmavada in Indian Thought |
神舘義朗 | シャンカラにおけるブラフマンと現象世界 |
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渡辺喜勝 | 日蓮における二つの予言―予言されし者と予言せし者― |
諸岡道比古 | 悪はいつ克服されうるか―後期シェリング哲学の場合― |
宮崎真矢 | シェーラーの現象学理論について |
木村敏明 | インドネシアにおける呪術的・宗教的土地所有権について―馬淵東一の所論の検討をとおして― |
小田嶋利江 | 変成男子物語をめぐる性意識 |
飯渕純子 | Karmasatakaについて―誓願を中心に― |
何 燕生 | 彫文喪徳と琢磨増輝―道元における宏智理解について― |
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繁田信一 | 祟―平安貴族の生活感覚における神仏についての予備的考察― |
品川知彦 | フレーザーにおけるsuperstition―呪術,宗教,民間信仰― |
佐々木幸貴 | Nyayamanjariにおけるアートマンの問題(2)―認識主体が単一であることはいかにして知られるか― |
村上幸三 | 名称・形態―シャンカラの宇宙論(3)― |
小林 守 | 究極的真実の存在と認識(1)―ツォンカパの中観思想を中心として― |
伊藤辰典 | 現代における修験者の活動―宮城県丸森町の本山修験宗寺院を中心として― |
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間宮啓壬 | 日蓮における救済の構造―即身成仏と霊山往詣― |
浅野博之 | 形而上学と宗教のあいだ―マックス・シェーラーの絶対領域論を手懸かりにして―(其の二) |
長友泰潤 | クマーリラのマナス説―ニヤーヤ学派との比較― |
林 隆嗣 | 南方上座部の行為論―Atthasaliniにおける業と門との関係― |
三上俊弘 | ヴィーダーンタ・デーシカの独在論(2) |
佐々木幸貴 | Nyayamanjariにおけるアートマンの問題(1)―sabdamatra-uccaranaについて― |
何 燕生 | 道元における修証思想の一考察―如浄との比較を通して― |
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木村敏明 | G.ヴァン・デル・レーウの宗教現象学における人間の問題(2) |
間宮啓壬 | 日蓮の信仰における謗法罪の位置と意義―智慧との連関において― |
浅野博之 | 形而上学と宗教のあいだ―マックス・シェーラーの絶対領域論を手懸かりにして―(其の一) |
小林 守 | シュリーグプタ作『真実への悟入』―和訳研究(上)― |
根岸宏典 | 彫刻に見る一角仙人説話の展開 |
北原裕全 | Visesana 考―Nyayavarttikatatparyatikaの直接知覚論理解のために― |
繁田信一 | 平安中期貴族社会における陰陽師―とくに病気をめぐる活動について― |
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杉山龍清 | 雑譬喩経類について(2) |
木村敏明 | G.ヴァン・デル・レーウの宗教現象学における人間の問題(1) |
宮崎真矢 | 初期ティリッヒの宗教哲学について―その方法論を中心に― |
村上幸三 | adhyasa,mithyainana,aviveka―無明概念あるいは無明感覚― |
三上俊弘 | ラーマーヌジャの解脱道と知―karmayogaとjnanayogaをめぐって― |
佐藤誠司 | 伝Arya Sura作『波羅蜜の要約(Paramitasamasa)』第一章 和訳 |
岡野 潔 | 仏陀の永劫回帰信仰 |
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間宮啓壬 | 日蓮における謗法罪と救済 |
浅野博之 | シェーラーにおける浄福と絶望 |
足澤一成 | Sahitya-darpanaのrasa理論―インド古典文芸論の一理論― |
伏見英俊 | 如来蔵に対するプトンとダツェパの立場―『如来蔵の麗飾』並びに同註解をめぐって― |
伊藤道哉 | Videhamukti(離身解脱)について |
華園聰麿 | 多元的信仰の機制に関する理論的考察―マックス・シェーラーの価値論との関連において― |
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華房光壽 | 『業成就論』について |
間宮啓壬 | 日蓮の宗教的自覚に関する一考察―法華経の行者と謗法の者― |
宮崎真矢 | シェーラーの自然的宗教について |
西倉直樹 | グレンベックのキェルケゴール観 |
桜井宗信 | Kriyasamgrahapanjikaの灌頂論(3)―一般若智灌頂― |
村上幸三 | シャンカラの宇宙論(1)―ブラフマン/主宰神にまつわるvyavahara― |
宮崎真矢 | マックス・シェーラーにおける宗教の本質現象学について |
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浅野博之 | シェーラーにおける神の理念について |
山崎 亮 | デュルケームにおける道徳と宗教 |
山下博司 | ディヴァムとカダヴル―古代タミル世界の神― |
安藤嘉則 | ジャイナ哲学におけるsabda観について―原子説との連関において― |
岡野 潔 | 普曜経の研究(中)―Lalitavistaraにおける新古の層の区分― |
桜井宗信 | Kriyasamgrahapanjikaの灌頂論(2)―秘密灌頂― |
木村俊彦 | ダルマーキルティにおける宗教的言語論―婆羅門経との聖典論争をめぐって― |
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加藤浩二 | R.オットーにおける感情の問題 |
佐々木徹 | カール・バルトの『ロマ書』(第一版)における信仰について |
渡辺喜勝 | 日蓮における女人成仏論 |
山崎 亮 | 初期西田哲学における宗教の問題 |
岡野 潔 | 普曜経の研究(上)―Lalitavistaraにおける新古の層の区分― |
高橋宏文 | ダンマパダアッタカター語義解釈よりの視点 |
諸岡道比古 | 人間における悪の問題―カントとシェリングの所説をめぐって― |
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山崎 亮 | デュルケーム宗教論における行為の問題 |
西倉直樹 | キルケゴールにおける罪の問題 |
佐々木雅文 | 神の恩寵と修行―カシミールシヴァ派における― |
小林 守 | カマシーラの離一多論証―『中観明』試訳(上)― |
奥山直司 | Jyotirmanjariの研究(Ⅱ) |
華園聰麿 | 多元的信仰生活の構造―藤原実資の場合― |
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安藤嘉則 | ジャイナ認識論のウパヨーガ説をめぐる諸問題―感覚知と完全知を中心に― |
佐島 隆 | 近代のイスラム宗教的世界への視角―C.ギアツの所論をめぐって― |
伊藤道哉 | Istasiddhiのjivanmukti論(Ⅰ) |
楠 正弘 | 信仰の究極を尋ねて |
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長友泰潤 | 仏教論理学派における意知覚(manasapratyaksa)について |
山崎 亮 | 社会と個人―デュルケーム宗教社会学の基底― |
久保田力 | 『楞伽経』の形態的成立史論―内部構造と原型への視点― |
西倉直樹 | キルケゴールにおける閉鎖性の問題 |
小林 守 | 映像(pratibimba)に関する三つの見解 |
佐々木徹 | カール・バルトの『ロマ書』(第二版)における信仰について |
山本春樹 | 死者と霊魂―アニミズム理論史研究序― |
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才川雅明 | 慧遠の三身説 |
宮 敏子 | 『往生要集』における往生成立の時をめぐって |
P.Hoormaert | 分別と無分別―菩薩道における真実の追求― |
鈴木岩弓 | 柳田國男の祖先崇拝論―先祖と家の観念を手がかりに― |
北川直利 | ワッハの救済の人間学の構造―ウェーバー批判との関連において― |
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池上良正 | 儀礼的境界におけるコスモス化とカオス化―V.ターナーのコムニタス論をめぐって― |
諸岡道比古 | シェリングにおける悪の一考察―精神的宗教をめぐって― |
村野宣男 | ヒュームにおける道徳と宗教 |
米沢 紀 | セーレン・キェルケゴールの生涯と著作の構造―間接的伝達としての匿名の問題を中心に― |
真方 敬 | 道義にして罪と罪にして義―『ロマ書』第七章十四−二十四節を中心に― |
中川本秀 | 祈りと沈黙 |
山折哲夫 | 鑁覚の宗教経験―解脱=救済論の新しい地平― |
華園聰麿 | 往生伝的浄土信仰における心の問題 |
早坂 博 | 一遍における念仏と救済 |
渡辺喜勝 | 時宗の入水往生考―その救いの論理と構造― |
高橋 渉 | 稲荷信仰の習合構造 |
山本春樹 | ものといきものの供養 |
松田紹典 | 干戈裡看花 |
月光善弘 | わが国の真言密教と大峯山・月山の秘所について |
高木 元 | 沙門の解脱道―『聖仙の語録』を中心として― |
澤井義次 | 出家遊行―シャンカラの不二一元論ヴェーダンタ哲学をめぐって― |
杉本卓州 | デーヴァダッタの善玉化−仏教における悪者の救済― |
塚本啓祥 | 解脱と救済の位相と統一―タクシラにみる宗教の種々相− |
矢島羊吉 | 龍樹の空の論理 |
広瀬智一 | 自在神にかかわる解脱と救済の問題―『Sarvasiddhantasamgraha』を中心として― |
磯田熙文 | 死・中有・再生による成覚論−『Amnayamanjari』における |
星宮智光 | 大乗仏教における悟りとその階梯―天台行位論の一考察― |
杉山晃一 | 稲のまつり―アジアの村々を訪ねて― |
山形孝夫 | コプト教における救済と解脱―ワディ・ナルトンの修道士の生活史から― |
華園聰麿 | 明治期における神社の廃合の経過と影響 |
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中井本秀 | Samkhya派におけるpramana理論の受容形態 |
田中雅一 | ヒンドゥ教の人類学的研究における二つの立場―原子論と全体論― |
磯田熙文 | Arya-Vimuktasena:"Abhisamayalamkara-Vrtti"(Ⅳ) |
杉本卓州 | 南方上座部の菩薩について |
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高橋 渉 | 津軽高山稲荷の信仰形態 |
広瀬智一 | 阿毘達磨灯論釈におけるIsvara批判 |
川村邦光 | 教祖における神がかりの意味をめぐって |
中井本秀 | Samkhya派知覚論について―『金七十論』とSamkhyavrttiを中心として― |
小笠原由紀夫 | ニーチェの悲劇観―人間存在の二重性をめぐって― |
山下博司 | Manjusrimulakalpaのマンダラと成立の問題 |
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鈴木岩弓 | 山岳信仰の構造―飯豊山登拝をめぐって― |
小林 守 | 仏弟子スブーティの無諍行―般若経の理解に関連して― |
S.ダシアール A. | 日本文化試論―民間信仰論と庶民信仰論― |
玉城康四郎 | 仏教研究の反省 |
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楠 正弘 | 呪術と宗教―フレーザーの所論をめぐって― |
川越英真 | rBa bshed の一考察―mKhas pahi dgah stonの引用を手がかりとして― |
渡辺喜勝 | 一遍聖の踊り念仏について―創唱期における2,3の問題― |
杉本卓州 | 仏教における生命観の一側面 |
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山本春樹 | パワンについて―マレーシアのシャマニズム― |
池上良正 | エリアーデの宇宙的宗教について―その文化論的有効性の問題― |
諸岡道比古 | 人間における悪の根底―カントの道徳的宗教をめぐって― |
北川直利 | フォイエルバッハの新しい哲学について―宗教との連関において― |
澤井義次 | 現代宗教―タルコット・パーソンズの宗教論をめぐって― |
村上真完 | サーンクヤ哲学における業、法・非法とヴァイシェーシカ哲学 |
早坂 博 | 浄土思想における生と死の問題 |
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蜜波羅圭之助 | 月燈三昧経偈頌における混淆サンスクリットの一考察 |
前田 崇 | 密教の形成についての一考察−Aryamanjusrimulakalpaにおける真言Mantraを中心として |
山田恭道 | 世俗諦考―初期資料の検討― |
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星宮智光 | 比叡山回峰行の成立とその形態 |
村野宣男 | 宗教的生き方と日常的生き方―ジェイムズの宗教論を中心として― |
木村俊彦 | プラマーナヴァールッティカ・プラマーナシッディ章について |
古坂紘一 | サーンクヤのsakti概念 |
磯田熙文 | サンスクリット語のPrefixとそのチベット語訳の問題(1) |
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華園聰麿 | 宗教史における平行論とその根底―R.オットーの所論を中心として― |
前田 毅 | ハイデッガーの解釈学における実存理念の問題 |