美術史への招待


 大学受験を考えている高校生や、これから専攻選びをする学部の一年生に向けて、美術史とはどういう学問なのか、研究室に入ったらどんなことが学べるのかを紹介するのが、このページの目的です。もちろん、転専攻や学部編入、大学院入学を希望する方にも参考にしてもらえるようなページを目指しています(内容は順次増広します)。


Ⅰ.両教授からのメッセージ

 絵画や彫刻などの作品の前に立って、いいしれぬ感動を覚えるという体験をしたことはないでしょうか。通常、その体験をさらに深く考えるということは、あまりないかもしれません。しかし、どこからこの感動は来るのかということが、どうしても気になるという場合、それ以上進むにはどうしたらいいか、とまどうに違いありません。感動の本質を哲学的に考える、あるいは心の性質と捉えて心理学的に考える、またその作品が生み出された背景を歴史的に考える、といったような進み方もあるでしょう。
 その一つの方法、そしておそらくもっとも有効な方法が、美術史という学問です。人文諸科学のうちでは、比較的若い学問ということもあって、この学問の方法は流動的なのですが、歴史学と美学のブレンドといったような性格をもっています。ただし、他の学問分野とちがい、記録や文書などの文字資料から始めるのではなく、あくまでも作品ないし〈かたち〉から出発し、〈かたち〉を通して考えるのが大きな特色といっていいでしょう。ノン・ヴァーバル・リサーチということになるでしょうか。
 心の琴線に触れた作品が、どうして生まれたのか、いつ誰が作り、どこで活用され、どんな人々が受容したのか。その背景にはどのような歴史的背景があるのか、当時の美意識はどのようなものだったのか。さらには、そこにいかような人間精神の脈動が秘められているのか、思想・信仰あるいは人間知の体系がもしかしたら投影しているのか。こうした疑問や問題を気長に保ちながら、分析あるいは総合の手続きを踏みつつ、作品の正体にせまり、ひいては作品に表われた人間の心を考える。美術史には多様な問題設定がありますが、要点はそんなところにあると思います。
 美術史には当文学部の場合、大きく分けて西洋美術中心と日本・東洋美術中心のふたつの講座があります。東洋・日本美術史講座で扱うのは後者です。美術のジャンルとしては、絵画・彫刻・工芸など種々ありますが、当講座の強みは、作品が比較的間近にあることでしょう。
 作品を研究するには、本の図版や写真では限界があり、やはり直接眼で見る、じかに作品に触れることが大事です。いままで気づかなかったことが、直接、作品に触れることによってわかってくることがしばしばです。当講座では、研究室全体で研修旅行を企画し、京都・奈良などの作品集積地、あるいは特定の地域に出向きます。そうして、作品をじかに見ることによって、ふだんの講義・演習などの成果を実地に試す経験を積み重ねます。その積み重ねの中から、自分なりの作品との対話法が生まれ、問題の解決法を見出すということになります。

 わたし自身は、仏教絵画を専門にしています。かつては当講座の学生でした。就職して学芸員となり、3年前までいわゆる美術館・博物館の現場で活動して来たという前歴をもっています。その間に、美術史の学問の方法もいろいろと変化し、格段に多様化してきた感じがしますが、作品とじかに触れるというのが出発点という基本は、微動だにしていません。美術を学問として扱う作業は、ややもすると感動を置き去りにする危険もあるのですが、いつも初心に帰る心構えさえ忘れなければ、おのずと道は開かれるでしょう。
 いやおうなくグローバル化の荒波にもまれる現在、日本の国際的な評価が問題になることがあります。そのときによく海外の人にいわれるのは、最後はその国の文化だ、というセリフです。いかなる文化を育んで来たのかが、経済よりも重要だということです。日本文化を映し出す鏡の役割を、東洋・日本美術史は担うことができる学問であるということも、最後に付け加えておきましょう。

(泉武夫)

2008年夏・中国甘粛省の楡林窟にて

美術を通して昔の人と触れ合う

 美術史という分野を学ぶことの中身を今のところ私は次のように考えています。

 未知の世界の人々が造った視覚表現を読み、そこにあるメッセージを現代語に翻訳する

 すぐにお気づきになると思いますが、美術史という言葉は、「美術」と「歴史」というふたつの要素から成り立っています。上の一文にある「視覚表現」が「美術」に相当します。では、「歴史」はどれに相当するかというと「未知の世界の人々が造った」です。私の理解では、「歴史」は時間と場所を違える、私たちにとって未知の世界の出来事を指します。
 辞書によれば、「歴史」という言葉の意味は、「人類社会の過去における変遷の記録」(大漢和辞典)だそうです。また、英語の辞書で"history"を引くとその最初には、「過去の出来事、特にある国家・国民の、政治的、社会的、経済的な発展に関する学問」(Oxford Advanced Learner's Dictionary)とあります。これをもとに少し言い方を変えると、「昔の出来事を並べ、なんらかの筋道をつけて記述すること」が「歴史」ということになります。これは昔のことを「よく知っていること」として理解することと同じです。
 あらゆる学問的な営みは、未知のものを既知のものとして理解することです。だから、今はよく知っていると思っていることも、もとはよく知らないことだったわけです。学問がそれをよく知っていることにしてきたといっていいと思います。
 私は、今自分がよく知っていると思っていることも、もとは未知のものだったということを意識することが、学問をおこなう上で大事なことではないかと考えています。それは、それを既知のものにしてきた学問の歴史に敬意を払うことにつながります。そして同時に、それは、本当に既知のものになったのだろうかという反省を迫ることにもつながるからです。
 美術史では、作品をよく見ることを大事にします。この学問の歴史はまだ浅いですが、既知のこととされることもたくさん生み出してきました。そのような学問の歴史に敬意を払うと同時に反省もおこなう。作品を造ったのは、私たちには未知の世界の人たちです。現代から遠い過去に造られたものであれば、未知である度合いはより増すでしょう。どんなに有名な作品でも、よく知らないものとして見ることが大事になってきます。
 作品は、昔の人々が直接手を下して造り上げたものです。それを見ることは彼らと直に触れ合うことに近い経験を生みます。だから、作品の見方が固定的になることは、彼らと触れ合う経験の幅を狭めてしまいます。昔の人々の見方は何だったのだろうということを絶えず意識しながら作品と向き合うことで、彼らと共感することが可能となるのです。
 美術史を学ぶことの意義は、過去の人々の手業から生み出された視覚的な表現に直に触れることで、彼らと共感することにあると私は考えています。その共感が果たされたとき、過去の人々からのメッセージを手に入れることができます。それを、現代人に翻訳して伝える。美術史を学ぶことはそのようなスキル(技)を身につけることです。美術を読む専門家として現代に生きていきたいと思う方、そうではなくても、美術を通して昔の人々と共感したいと考える方は、どうぞ研究室のドアを叩いて下さい。

(長岡龍作)

Ⅱ.学生からのメッセージ

 人は、時には直感に任せて行動してみても良いのではないでしょうか。
 私と東洋・日本美術史研究室のつながりは、オープンキャンパスの際にたまたま友人と立ち寄り、直感的に「自分はこの研究室に入るべきだ」と感じたのが始まりでした。そんな始まり方だったため、入ったばかりの頃は美術史がどんな学問であるかなど全く知りませんでした。
 研究室に入ると、最初に行われる行事が「勉強会」です。私は二年生の夏、院生の方の引率で中尊寺へ見学に行きました。貴重な作品を前にして、そのどこに目をつければ良いのか、それが何を表しているのかも分からず、ただ感動するばかりでした。素人くさい話ではありますが、この時初めて仏像は結ぶ印で見分けることが出来ると知り、研究室に帰ってから調べて自分の手で印を結んでみたことが印象に残っています。またこの勉強会は、後日見た作品の中から一つを選び、その作品について調べた事を発表する場が設けられます。私が選んだ作品は「螺鈿八角須弥壇」という仏像を安置する台座でした。なぜ台座?と、思う方もいらっしゃるかも知れませんが、何か惹かれるものがあったのです。実際調べるとなると、まずは単語を覚えることで必死でした。しかし、調べる中で螺鈿で表現された密教的な文様が、かつてそこに安置されていた仏像の世界観を表していることを知り、一気に美術史の魅力に引き込まれていきました。


2007年夏・中尊寺金色堂前

 東日美研究室に入って最も変わったことは、旅行の回数が増えたことです。美術作品は写真を見ただけでは、その大きさや表面の質感、細かな特徴など分からない点が多く、興味のある作品が展覧会に出品されるとなれば、授業予定と相談の上なるべく見に行くようにしています。中でも研修旅行では4日間で奈良や京都を巡り、貴重な作品の数々を見ることが出来ました。特別拝観では文字通り目と鼻の先に作品があり、数百年前に作られたものが目の前にあるという感動につつまれました。
 日々の授業では、各科目で扱う時代も内容も異なります。それらの授業全体を通して、0の状態から少しずつ美術史という学問がどの様なものかが分かって来たように思います。最近改めて実感したことは、ある一つの作品が持つ背景の大きさです。歴史の流れの中で生まれた作品は、前の時代の足跡を持ちつつ、後の時代に足跡を残す。一見関係の無いジャンルの作品が妙に似通って見えることもあります。しかしその作品独自のものもしっかり持っているのです。そのような作品たちについて研究する際には、授業で学んだこと、発表に向けて調べたことなどを、全て使わなければならないと切実に感じている今日この頃です。

 美術史という未知なる世界に、何の知識もなく飛び込んでから二年。あの時の自分の直感は間違えではなかったと、今では確信しています。まだまだ学ぶべきことが山のように積み重なっており、最近コーヒーが友達になってきましたが、好きなことを好きなだけ勉強しているので幸せです。拙い文章でしたが、学部三年生の私の体験や感想を書くことで、東洋・日本美術史研究室の楽しさを少しでも伝えることが出来れば幸いです。

(学部三年生)

Ⅲ.どんなことを学ぶのか?

 二年生から受講することになる研究室の授業は、「開講科目」のページで紹介していますが、四年生になると、それらの授業とは別に、自分の好きなテーマを選んで、卒業論文を書くことになります。一例として、昨年度及び一昨年度卒業生の卒業論文・修士論文の題目を以下に挙げておきます。

2010年度
修士論文鎌倉時代の僧侶の肖像画―明恵上人像をめぐって―
敦煌莫高窟第二八五窟の研究―造営とその宗教的機能を中心として―
卒業論文伊藤若冲筆「樹花鳥獣図屏風」について
陽明文庫本「春日鹿曼荼羅図」について

2009年度
修士論文描かれた芸能―宗達筆「舞楽図屏風」を中心に―
浄瑠璃寺九体阿弥陀像に関する一考察
藤原京薬師寺及び奈良薬師寺の本尊について
卒業論文「洛外名所遊楽図屏風」について
高野山阿弥陀聖衆来迎図について
宗教建築の天井の画龍について

2008年度
修士論文室生寺金堂諸像について―伝釈迦如来立像を中心に―
卒業論文中尊寺紺紙金銀字交書一切経について
毛越寺蔵「鉄樹」について
明恵上人樹上坐禅像について

過去の論文題目一覧


東北大学 東洋・日本美術史研究室 2010年05月10日 更新